| 栗原 草 |
|
一時間目の授業が終わると、クラス全員がぞろぞろと教室を出始めた。次の時間に、隣のクラスと合同で体育の授業が行われるのだ。夏休みが明けて最初の授業だが、二週間後に控えている運動会に向けて、クラス対抗リレーの練習をするのだと中井先生は言っていた。 校庭に出てしまってからも、秀人のクラスメートたちはあちこちに散らばって好き勝手にふるまっていた。友達とおしゃべりをしたり、鉄棒で遊んだり、うんていの上に登ったり。対してお隣のクラスはというと、まだ先生も来ていないうちから、すでに集合場所に並んで待機していた。ところどころおしゃべりはしているものの、何かを恐れているように、そのどれもがひそひそとした声だった。 授業開始のチャイムが鳴る前に、黒のジャージに身を包んだ男の教師がやって来た。隣のクラスの担任、田中(たなか)努(つとむ)である。彼は体育会系の若い教師で、行事となると子どもたち以上に気合いが入るタイプだった。 「ほら、一組もちゃんと整列して!」 田中先生は、手を叩きながら校庭に向かって大声を出した。秀人のクラスメートたちは、まだチャイム鳴ってないのに、などとささやきあいながら、だらだら集まって二組の隣に整列した。 「練習だからといって、手を抜くのはよくないぞ。練習で本気になれなければ、本番になっても本気にはなれないんだ」 こう言って、先生は全員を見渡した。 「まだ中井先生がいらしてないが、これから校庭を二週する。身体を慣らす意味での走りだ。ペースはあまり速くなくていいからな」 そうして胸にさげた笛を吹きながら、彼は自ら先頭になって走り始めた。それに二組の列が続き、一組も文句を言いつつ走り始めた。 二週目に突入したところで、ようやく授業開始のチャイムが聞こえてきた。それでもまだ中井先生は姿を見せず、走り終わって全員がもとのように整列した頃に、まるでタイミングを合わせたように彼女は姿を現した。 「先に校庭を二週しておきましたよ」 「まあ、そうでしたか」 田中先生の報告を受けて、中井先生は少し驚いたような顔をした。それから、ありがとうございました、と言って、整列している子どもたちの前に立った。一恵の号令で授業開始のあいさつをしたあとに、中井先生が全員に向かって話し始めた。 「今日は、運動会で行われるクラス対抗リレーの練習をしたいと思います。まずは十分くらい時間を取るので、各クラスで集まって、走る順番を決めてください」 最終的には、少しばかり時間を延長して十五分ほどの時間をかけて、それぞれのクラスの走順が決められた。といっても、この時間延長は一組のためだけにされたようなもので、二組はホームルームの時間を使ってすでに順番を決めていたようだった。秀人の走順は、真ん中より少しあとになった。あまり足の速くない人が割り当てられるポジションだ。 二組の体育係が、先生に頼まれて用具置き場からリレー用のバトンとスタートの合図に使うピストルを持ってきた。バトンはプラスチック製で、色は緑と黄色だった。 「順番が決まったようなので、実際に走ってみることにしましょう。運動会までにはまだ時間があります。走ってみてうまくいかないところは、あとから順番を変えてもかまいません」 そう言って、中井先生は偶数の順番に走る子どもたちを引き連れ、スタート地点の反対側まで歩いていった。このリレーでそれぞれが走る距離は百メートル、二百メートルトラックのちょうど半分の距離だった。 奇数番号に走る秀人は、スタート地点に残って田中先生の指示に従うことになった。先生は、秀人たちをきちんと順番通りに並ばせて、第一走者にバトンを手渡した。一組が緑で、二組が黄色だ。彼らがスタートの位置に立ったのを確認すると、田中先生は自分のクラスの第一走者に、真剣にな、と声をかけてこう言った。 「じゃあ、準備はいいな?」 先生の声に、二組の子どもたちがおしゃべりをやめて静まり返った。それでもまだ一組ががやがやと騒いでいたので、先生は先ほどより大きな声を出してくりかえした。 「準備はいいなっ?」 だんだんとおしゃべりの声が小さくなっていき、ようやくみんなが静まったところで、田中先生はピストルを持った右手をかかげ、スタートの声をかけた。 「位置について、よぉい――――」 パァン! 第一走者が走り始めた。初めは並んでいるように見えた二人だったが、カーブにさしかかったところで、二組の走者がぐん、と前に出始めた。走順を待つ子どもたちが声援を送る中、先生が小声で「いいぞ、吉村(よしむら)」と言っているのが秀人の耳に届いた。 列の先頭が抜けていくたびに、走り終わって息を切らした偶数番号の走者が後ろについた。列はほどなくして乱れてしまったが、応援するのに夢中な先生は、もはやそれを直そうともしなかった。 「次、誰だっけ?」 「早く、早く! 岡沢(おかざわ)の次!」 「ああっ、一周遅れになっちゃった」 「ねぇ、次誰?」 「野田くんじゃない?」 「おい、野田! 早く!」 クラスメートの興奮しきった声が聞こえる。リレーのなりゆきよりもむしろ誰かがトランプを持っていないかということに気を取られていた秀人は、自分の名前が呼ばれていることに気がついてあわててトラックに出ていった。 そこではすでに、二組の走者がバトンを受け取れる体勢で待機していた。出てきた秀人をちらりと確認したその顔からは、わずかに戸惑いのような色が見て取れた。幸太だった。秀人が顔を向けると、彼は気まずそうにして目線を前へと戻した。 ああ、まただ……。 ほかの誰よりも、こうして幸太に避けられることが秀人にとっては一番つらかった。 先に二組の走者がやって来て、幸太へとバトンを手渡した。黄色いバトンを受け取って走り出した彼のあとを、秀人もすぐに追い始めた。その背中は、まるで秀人から逃げていくように見えた。 …………あれ? 走り出してすぐに、秀人は幸太がはいているハーフパンツのポケットに魔法使いのトランプがはさまっているのを見とがめた。 なんだか、急に現れたみたいだな。 考えてみれば、今までのカードにしてもそうだった。もともとその場所にあったというよりは、どれも何かの拍子に突然出てきた、という感じだった。もしかしたら、魔法使いのカードというのは常にあちこちと動き回っているのかもしれない。 だとしたら、と秀人は考えた。 だとしたらぐずぐずしてはいられない。秀人が手に入れてしまう前に、せっかく見つけたカードがどこかへいってしまっては大変だ。 彼はとにかく、幸太まで追いつこうと足に力をこめてみた。 カーブにさしかかって、幸太は自分が秀人に追いつかれそうなことに気がついた。スピードをあげようと、彼は右足を大きく前に突き出した。 「あっ!」 勢いあまって、幸太が派手な転び方をした。 「幸太!?」 あわててそばに寄ってみると、幸太の左ひざからは真っ赤な血がにじみ出ていた。 「大丈夫か?」 すぐに、田中先生がやって来た。声援はざわめきに変わって、みんなが心配そうにこちらを見ている。 「傷口を洗って、すぐ保健室に行きなさい」 先生の言葉を受けて、秀人は幸太の左腕を自分の肩に回した。 「立てる?」 秀人に寄りかかりながらも、幸太はなんとか立ち上がって歩き出した。そして小さな声でこう言った。 「……ありがとう」 「…………うん」 秀人も、小さな声でうなずいた。彼はなんだか、久しぶりに幸太の声を聞いた気がした。 * * * 保健室の先生は、秀人に支えられてきた幸太を見るなり「あーあぁ、派手にやったねぇ」と言って棚から消毒液を取り出した。秀人は幸太を長イスの上に座らせて、自分もその隣に腰かけた。 「ちょっとしみるからねぇー」 そう言って先生は、ピンセットでつまんだ綿に消毒液を染み込ませた。その綿が傷口に当てられるたび、幸太はびくりと身体をふるわせた。 「はい、おしまい」 そうして大きな絆創膏を幸太のひざに貼りつけてから、先生は何かを取りに再び棚へと歩いていった。 「秀人……今まで、ごめんな」 先生が離れたのを見計らって、幸太が一言つぶやいた。 「……うん」 秀人は答えて、二人ともまただまりこんだ。それで、すべてだった。 「大げさになっちゃうかもしれないけど、とりあえず包帯は巻いておくよ?」 包帯とはさみを手に持って、先生が二人のそばに戻ってきた。幸太の左足が白いガーゼでぐるぐる巻きにされていくのを見ながら、秀人はふと、トランプのことを思い出していた。もうなくなっているだろうかと思いながらも、彼は幸太に尋ねてみた。 「ねぇ、幸太。……ハーフパンツのポケットにさ、なんか入ってない?」 「ハーフパンツのポケット?」 幸太はしばらくごそごそやってから、やがて何かを引っ張り出した。えんじ色のドラゴン、魔法使いのトランプだった。 「あれ? こんなとこにトランプなんて入れてたっけ?」 不思議そうな顔をする幸太に、秀人は魔法使いのことを話して聞かせた。今まで誰にも話さずにきたけれど、彼ならばこんな突拍子もない話も受け入れてくれると信じていた。少なくとも四年生の頃ならば、二人はお互いのことを疑ったりはしなかった。そして今、秀人は二人の関係がその頃に戻ったと確かに感じていたのだった。 「へぇー、大富豪ねぇ……」 話を聞き終えて、幸太は手にしたトランプをめずらしそうにながめた。秀人も隣からのぞいてみたが、それはスペードのジャックだった。 「……で、これまでにはどんなカードが集まったわけ?」 幸太に聞かれて、秀人は手札になったカードを思い出してみた。 「ええと……まずは最初のスペードの3でしょ? それからダイヤの5に、ハートの7、あと……クラブの5と、クラブのキング、それから……ああ、それからハートの5に、今のスペードのジャック。あんまり強い手じゃないよね……」 「いや、そうとも限らないぞ」 「えっ?」 「だって、それで全部じゃないんだろ? まだ、増える可能性がある」 「うん……」 幸太の言うことは正しかった。まだ、これで決まったわけではない。しかしこれまでのペースからしてみれば、今から夕方にかけて、強いカードがどんどん出てくるようになるというのは少し考えにくいことだった。 「でもさ、これから出てくるカードが、絵札とかAとか2ばっかりだとは、限らないわけだし……」 「ねらいはひとつだけだ」 「……ねらい?」 「そう。去年大富豪やったときもさ、秀人はいっつも弱いカードにばっかり好かれてただろ?」 「どうせ、そうだよ」 「まあ、まあ。今回はそれが役に立つかもしれない、ってことだよ」 「……どういうこと?」 首を傾げる秀人に、幸太は得意げな顔を向けた。 「今の時点で、5のカードが三枚もそろってる。この調子でもう一枚5のカードが集まったら、そのときは世界がひっくり返って、3が最強のカードになる」 「それって、もしかして……」 「ああ。革命、だ。今の手でねらえる勝ちはそれしかない。……って言っても、相手が秀人以上に弱いカードばっかり持ってたら、そんときはどうなるかわかんないけどな」 あの魔法使いがどんなカードを集めるかはわからなかったが、革命という手を使うなら、なんだか勝てそうな気がした。革命はすべてがひっくり返る。2が最弱のカードになって、代わりに3のカードが一番強いカードになるのだ。 「そう、か。革命かぁ……」 感心している秀人の隣で、幸太が「要は発想の転換だよ」などと気取ったことを言っていた。 * * * ほしいカードはスペードの5。ゲームが始まる前までに、それさえ手に入れば問題はない。……そう考えた秀人だったが、実際は、それこそがもっとも難しい問題であるようだった。 あのあと、幸太を迎えに保健室までやって来た田中先生のジャージから、スペードの6が落ちてきたのを拾った。それから昼休みには、隣の席の女子が落とした筆箱を拾って、そこから落ちたダイヤの4を手に入れた。けれどそれっきり、肝心のスペードの5が秀人の前に現れることはなく、学校での一日は終わりを迎えようとしていた。 帰りのホームルームの時間になって、中井先生が教卓で連絡事項を述べ始めた。秀人は日誌を書こうと赤いファイルを机に開き、そうしてから一恵が朝にこう言っていたことを思い出した。 『いじめのこと、ちゃんと書いて先生に知らせたらどうかしら』 秀人を心配して言ってくれたのは嬉しかったし、そうするのもおそらくひとつの方法だろうと思った。だが秀人は、自分がそうしないことを知っていた。今までそんなふうにいじめのことを知らせたことはなかったし、今はそうしなくてもほかに解決策を得ることができた。いじめは、親や先生の力でどうにかなる問題ではない。無駄に心配をかけるのは気が進まないことだった。 秀人は日誌にクラス対抗リレーの練習をした、と書くことにした。もうすぐ運動会で、ますますいろんな練習が始まるだろうということも。帰りのホームルームが終わって、教室を出ていこうとする先生に日誌を渡すと、秀人は自分の机に戻ってランドセルへと道具をつめ始めた。最後にランドセルのファスナーがついたポケットからトランプを取り出して、今までのカード――特に三枚の5のカードがちゃんとそろっているか確かめた。 「おい、何やってんだよ?」 そのときふいに、後ろから声をかけられた。辰巳の声だ。 やばいな、面倒なことになりそうだ……。 秀人は急いでトランプをしまおうとしたが、一瞬先に辰巳が手をのばしてきてカードをすべて取り上げてしまった。 「ひとりでトランプか?」 「友達いないからだろ」 あっというまに秀人を取り囲んだいじめっ子グループが、あざけりの顔で秀人を見ていた。 「返して」 辰巳の持つトランプに必死で手をのばしてみたが、またいつものように「秀人回し」が始まった。彼らが実際に手から手へと回しているのはトランプなのだが、そのトランプのゆくえを追っている秀人は、結局のところいじめっ子たちの間を回されているような状態になるのだった。 「ねぇ、返して!」 そうして辰巳たちの間をあちこちと回されながら、秀人はなんだか今までで一番みじめな気持ちになった。彼らが何も知らずに回しているそのトランプは、秀人にとって文字通りの切り札なのだ。ほかでもない、彼らいじめっ子グループに勝ちたいという、その望みをかなえるための。その切り札さえも、今は敵の手のうちにあるのだった。 「返してってば……っ」 いつにもまして必死な秀人に、辰巳は何か新しい遊びを思いついたらしかった。にやりと笑って、ちょうどその手に渡ってきたトランプを高々と持ち上げた。 「そんなに返してほしいなら、土下座でもしてみるか」 「え……土下座?」 「ああ。そこに手ぇついて、土下座してみろよ」 床に、手をついて土下座。 そうすれば本当に、トランプを全部返してくれるのだろうか? そうすれば、辰巳の気が済むのだろうか? 秀人はじっと彼の顔を見返した。 ……いや。もしこれを受け入れてしまったら、彼はますます調子にのるに違いない。調子にのって、次々と注文をつけてくるのだ。そうしてそのすべてに従う秀人のことを、あのにやけた顔でおもしろそうにながめ続けるのだ。 考えただけで嫌気がさした。そんなのには、たえられない。 それにもしここで土下座をしてしまったら、そのトランプでかなえた望みは、結局のところ彼らに土下座をしてかなえてもらったということになる。土下座をして彼らに勝つなんて、それでは秀人の気が済むはずもない。 「うるさい、返せよ!」 自分より背の高い辰巳が持つトランプ目指して、秀人はできる限り伸び上がって手をのばした。その勢いに、辰巳が一瞬たじろいだ。彼の腕が少し下がってきたところで、秀人はすかさずトランプを奪い返した。 「な、何すんだよ?」 予想外のことに、辰巳は驚きの色を隠せずにいた。 今のうちに逃げなきゃ。 とっさにそう判断して、秀人は自分のランドセルを引っつかむとそのまま教室を駆け出した。 |