トランプ 1
栗原 草


 空はうっすらとオレンジ色に染まっていた。夏の気配は遠のいて、ときおり吹く風が半袖姿には肌寒い季節である。
 警報器のけたたましい音を聞きながら、目の前を通り過ぎていく貨物列車の長い列を見送っていた野田(のだ)秀人(しゅうと)は、むき出しになった両腕をさすって深くため息をついた。背中の黒いランドセルは傷だらけで、薄汚れたスニーカーはびしょぬれだった。くつ下までぬれてしまって、足の感触が気持ち悪い。
 どうしていつも僕ばかり、こんな目にあわなきゃならないんだろう。目立たないようにしてるはずだし、だいいち何も悪いことなんかしてないのに……。
 貨物列車の列がようやく終わりを迎え、黄色と黒のあざやかな遮断機が道をあけた。それでもまだぼんやりと立ちつくしている秀人を横目で見ながら、自転車に乗ったおばさんが踏み切りを渡っていった。
 どうしてみんな、僕のこといじめるんだろう……。
 うつむいたまま歩き始めた秀人の後ろには、乾いたアスファルトに彼の足あとだけが残っていた。
 秀人がいじめられるようになったのは、この春、五年生になってからのことだった。それまでは、休み時間を一緒に過ごす友達がいたし、彼らとはよく放課後も道草をくって遊んだ。いじめられることなどまったくなく、学校はそれなりに楽しいところだと、そう思っていた。――――――けれど。学年が上がりクラス替えをしてからというもの、秀人にとっての学校は、まったくの別ものに変わってしまったのだ。
彼はもとより話しべたで、自ら人に声をかけるというのが苦手なタイプだった。いったん仲良くなってしまえば、それなりに冗談も言えるし、何より聞き上手なところはあるのだが、どうしても初めのうちは人見知りをしてしまうのだ。そんな秀人が新しく友達を作るというのは、なかなか苦労のいることだった。
それが五年生になってのクラス替えでは、運の悪いことに、友達みんなと別々のクラスになってしまったのだ。そのうえ、クラスの中ではすでに同じクラスから来たもの同士のグループができあがっていて、秀人の入りこめるような隙は残されていなかった。気がついた頃には、彼は新しいクラスの中で、ひとり取り残されたような形になっていた。そして群れからはぐれてしまった一匹の小魚を、大きな魚が見逃すはずはなかったのである。
休み時間になってもいつもひとりで机に座り、やることもなくただ教科書をながめているしかなかった秀人を見て、いじめっ子グループは彼を「がり勉」だとからかい始めた。秀人がだまってがまんしていると、彼らは調子に乗って秀人の筆箱を取り、それを投げ合って遊び始めた。
「ねぇ、返してよ!」
 五、六人いるいじめっ子たちの間を、あちこちと振り回されて筆箱を追っている姿は、はたから見ればそうとうみじめだろう。そう思ってもやめるわけにはいかず、秀人はますますみじめな気持ちになった。まわりのクラスメートは、ふざけて遊んでいるだけだとでも思っているのか、いじめっ子たちを止めようとはしない。
そのうちに、茶色い髪の目立つ少年が筆箱をつかんだ。グループのリーダー格、倉橋(くらはし)辰巳(たつみ)である。
「おい、秀人。取ってこいよ」
 辰巳は口の端を上げて仲間に笑い顔を向け、教室の後ろに置かれたゴミ箱へとねらいをさだめた。秀人が止める間もなく、筆箱は辰巳の手を離れ、きれいな弧をえがいてゴミ箱へと吸いこまれていった。
「ナイス、シュート」
 辰巳は近くの仲間と手を打ち鳴らし、秀人が筆箱を取りにいく様子をおもしろそうにながめていた。
 それからは、毎日同じようなことが続いた。取られるものはさまざまで、教科書だったり、リコーダーだったり、給食着だったりしたが、同じなのは最後に決まってゴミ箱へシュートされることだった。秀人とシュートをかけてからかうのが、辰巳一番のお気に入りだった。
 いじめは日に日にエスカレートしていったが、誰一人として止めてくれる者はなかった。その事実に気がついていながら、秀人をかばったら次は自分だと、恐れて見て見ぬふりを決めこんでいるのだ。そうしてクラスメートばかりか、かつて友達だったはずの仲間も離れていった。
 足を進めるたびに、ぬれたくつがグジュグジュと嫌な音をたてる。夏休みが明ければ、もしかしたらいじめもなくなるのではないか。そう、思っていた。だがそんな期待は、もろくもくずれさったのだ。登校初日に外履きを隠されて、学校中を探し回った。やっと見つかったそれは水の入った掃除バケツに浮かんでいて、しかも教室を離れた隙に、中身を床にぶちまけたランドセルが、無理やりゴミ箱の中へとつめこまれていたのだ。
 もう、学校なんか行きたくない。
 五年生になってからというもの、何度そう思ったかわからない。けれど、共働きの両親によけいな心配はかけたくなかった。結局いじめのことはだまったまま、今まで学校に通い続けてきたのだ。
 うつむいた秀人の視界は、アスファルトの暗い色で満たされていた。歩みは遅く、重苦しさに何度もため息が出た。こうしていると、気分はますます落ちこんでいくようだった。
 どうしていつもこうなんだ。いつも、僕ばっかり……。
彼は目の前の石を蹴飛ばした。
転がっていく石を目で追った秀人は、その先に意外なものを見つけて立ち止まった。そこにあったのは、一枚のトランプだった。
こんなところに、トランプが……?
いったいどんないきさつで、こんな場所にトランプが落ちているのだろう。秀人はなんだか興味をそそられた。トランプは表向きになっていて、白のあざやかさとアスファルトの暗い色が対照的だ。
彼は近寄って、トランプを拾いあげた。
スペードの、3。裏返してみると、えんじ色の唐草模様に紛れてドラゴンが二匹えがかれていた。もう一度表に返してみれば、マークの形といい、数字の書体といい、アンティークな雰囲気でなかなかしゃれたトランプだった。
一枚しかないのは残念だけど、せっかくだからもらっていこうかな……。
秀人がトランプをズボンのポケットへとしまいかけたとき、彼の肩に誰かが軽く手をかけた。

   * * *

「君、それねぇ、僕のなんだけど」
 妙に甲高い声がして、秀人はあわてて振り返った。
「あ、あの……ごめんなさいっ」
 そこで目に入った人物の姿に、彼は開いた口がふさがらなかった。
 目の前に立っていたのは、アラビア風の派手な格好をした男だった。赤く小さな帽子を頭にのせて、白いブラウスの上に青のチョッキ、柄物のズボンは太く裾の部分でしぼられている。さらには先のとがったやけに大きなくつをはいていて、左手にこぶだらけのステッキが握られていた。その色はなんと黄緑色だ。
「あなた……は……?」
 やっとのことでそう口にすると、アラビアンな男は秀人の肩から手を離して、カールした口ひげをくるりとねじった。
「僕ね、魔法使い」
 そう答えて、男は左手に持ったステッキを軽く投げ、右手へと持ち直した。
「魔法使い、って……」
 これではどう見てもイカサマ師だ。秀人はのどまで出かかった言葉を飲みこんだ。代わりに、ポケットへとしまいかけていたトランプを差し出し、尋ねてみる。
「このトランプは……あなたの?」
 すると彼はぴくりと片まゆを上げて、首を大きく横に振った。
「ノーン。トランプ、ではなくてプレイングカード。ね?」
「えっ?」
「トランプ、って切り札の意味でしょう? それはスペードの3で、切り札にはなりえない。〈大富豪〉では、ね」
「大富豪……?」
 秀人はわけがわからなかった。
「ウィー。君が拾ったのはスペードの3。で、スペードの3から始まるカードゲームといったら、大富豪でしょう。……ね、ゲームはもう、始まってるよ?」
「それって、どういう……」
 思わず一歩後ずさった秀人に、男はぴたりとステッキの先を差し向けた。
「君は、僕のカードを盗もうとしたよねぇ? なんなら君を、石ころに変えてやってもいいんだよ?」
 右足のかかとに、先ほど蹴飛ばした石が当たった。秀人は男に目を向けたまま、その場に凍りつくしかなかった。
「なあに、逃げることはない。……ね? 悪い話じゃないんだから」
 途端に猫なで声になった男は、ステッキを下ろして秀人の背後に回り、そっとその肩を抱いた。
「僕と一ゲーム、願いたいだけ。しかもノーリスクハイリターンで、ね。もし君が勝ったら、僕の魔法で望みをひとつかなえてやろう。……だからってもし僕が勝っても、君が僕に何かをしてくれる必要はない」
 秀人は、自分の右肩にあごを乗せている男の顔を横目で見た。男はそれに応えてにやりと笑う。
「魔法使い、ってのも暇なもんでねぇ。昔はほら、下働き同然のすえむすめにドレスを着せて舞踏会へ……なあんてこともあった。それが今じゃあ、仕事の依頼はないし、だいいち人間は僕らの存在すら忘れちゃって。…………まあ、とにかく。だからほんの暇つぶしにね、僕と一ゲーム、つきあってくれないかなぁ?」
 確かに、この男の言うことを信じてみるなら、悪い話ではなかった。ほんの一ゲームだけつきあって、もし運よく秀人が勝てば、望みをひとつかなえてもらえるのだ。そして今、秀人にはどうしてもかなえてもらいたい望みがある。秀人は、男に向かって大きくうなずいてみせた。
「そう、それはよかった」
 男はにっと笑って人差し指を立てた。
「じゃあ次に、ルール説明。ね? ……ところで君、大富豪のやり方知ってる? カードゲームの?」
「はい、まあ……それなりに」
 秀人はあいまいに答えた。やり方なら、だいたいはわかっているつもりだ。
 大富豪とは、先ほど男が言ったように、スペードの3から始まるカードゲームだ。トランプをお金に見立て、一番弱いのが3のカード、それから4、5……と続き、キングまでいくと次はAで2が一番強いカードということになる。ただし、ジョーカーを混ぜる場合はそれがもっとも強い。
始めにプレーヤーへとカードが均等に配られ、それぞれの手札となる。ゲームはスペードの3を持つプレーヤーからスタートし、その後は順番に強いカードを出していくのだ。場に出ているカードより強いものが手札にない場合、または戦略として何度でもパスをすることができる。全員が一回りパスをした場合は、最後にカードを出したプレーヤーが親となり、新たに好きなカードを出してゲームが進行していく。
ふつうは五人ほどで行うゲームで、手札がなくなりしだい上がりということになる。一ゲーム目は五人とも「平民」から始め、二ゲーム目以降は早く上がった順に「大富豪」、「富豪」、「平民」、「貧民」、「大貧民」といった具合に格づけされる。本来はこれがこのゲームのだいごみであり、ゲームの前に「大富豪」は「大貧民」に手札から好きなカードを二枚、「大貧民」は「大富豪」に手札からもっとも強いカードを二枚渡す。「富豪」と「貧民」の間でも、同じようにカードが一枚ずつ交換されるのだ。
細かいルールとしては、親になった人は、手札に同じ数字のカードが複数ある場合、それを重ねて場に出すこともできる。例えば親が4のカードを二枚一度に出したとすれば、その後にカードを出すプレーヤーは、4よりも強いカードを二枚そろえて出していかなければならないことになる。このとき、ジョーカーをなんらかのカードの代わりとして、組み合わせて出すこともできる。
秀人が大富豪のルールを知っていたのは、四年生の冬に教室でこのゲームが大流行したためだった。冬場になると、寒くて外で遊べない日が多くなるため、休み時間の遊びとしてトランプやオセロを持ちこむことが許される。大富豪が流行したときは、休み時間になった途端、教室のあちこちで五、六人の輪ができて授業の開始ぎりぎりまでゲームが行われていた。秀人もその例にもれず、ひとつのグループに混じって大富豪を楽しんだ。そのグループでは、池上幸太(いけがみこうた)が強かった。秀人はいつも、幸太に手札の中から一番強いカードを取られてばかりだった。
幸太、か……。あんなに仲が良かったのに、今じゃ口も利いてくれない。
五年生になって、秀人を避けるようになった彼の態度を思い出すと、ふいにため息がこぼれた。
「……どうした?」
 男の声がして、秀人は顔を上げた。思いがけず近くまで寄せられていたその顔には、何を考えているのやら、薄っぺらな笑みが浮かんでいる。
「…………ううん、別に」
「そう?」
 男は、秀人の様子などほとんど気にとめていないようだった。
「じゃあ、説明の続きといこう。…………うん、やるのは確かに大富豪なんだけどね。せっかく魔法使いとやるんだから、少しはふつうと違ったことをしなきゃ。ね、そうでしょう?」
 少しはふつうと違ったこと。
 男が何を言おうとしているのか、秀人にはよくわからなかった。
「あー、つまりねぇ、残りのカードのことなんだけど――――」
 そう言って男がステッキを一振りしたとき、目の前で起こった出来事に、秀人は自分の目を疑った。
 まず驚いたのは、今までステッキのこぶだとばかり思っていたものが、とつぜん動きだしたことだった。黄緑色をしたそれは、カエルのような目をキョロつかせて、長いしっぽをステッキにからませていた。
 あれは、なんていう生き物だったっけ……?
 秀人が思い出す間もなく、次にそれは大きく口を開けて、ピンク色の長い舌をのばし始めた。その先には、どこから出てきたものやら、一組のトランプがのっかっている。裏面のドラゴンや表のしゃれたデザインからして、どうやら秀人が拾ったトランプと同じ種類のものであるらしい。
彼はそこで、ステッキにしがみついている生き物がカメレオンだということに気がついた。あざやかな黄緑色が、だんだんとこげ茶色に変わり始めている。そうしてすっかりこげ茶色になりきったところで、その舌にのっかっているトランプのかたまりを、男がひょいと取り上げた。
「……あれ?」
 気づいたときには、カメレオンはまた元通り、ただのステッキのこぶになっていた。ひとつだけ最初と違っているのは、ステッキの色が黄緑色からこげ茶色に変わってしまったことだった。
 この人が魔法使いだっていうのは、本当だったんだ……。
 いまさらながらに、秀人は自分が本物の魔法使いに出会ったのだと気がついた。たった今、本物の魔法を目の当たりにしたのだ。
「これが……ふつうと違ったこと……?」
 目を丸くしてつぶやく秀人に、魔法使いの男は大げさな身振りで首を振ってみせた。
「ノーン! まさか。……今のはただ、残りのトランプを取り出しただけ、でしょう? ふつうと違う、っていうのはね。つまりこういうこと!」
 魔法使いの声とともに、その手の中にあったトランプのかたまりが宙に浮かんだ。そしてそれらは、一枚一枚がバラバラになって、いろんな方向へと飛んでいった。
「ごらんのとおり、僕のカードは街中にばらまかれた。君はそれを探さなくちゃいけない。君の手札として、ね」
「えっ? 手札?」
「ウィー。明日のこの時間、この場所で大富豪のゲームを始めよう。それまでに、できるだけ有利な手札を集めておくことだよ? 君が集めたのと同じ枚数だけ、僕も手札を用意する。もし君が、スペードの3以外にカードを見つけることができなかったら、そのときはゲーム抜きで僕の勝ちだ。……これがふつうと違ったルール、魔法使いとの大富豪のやり方、ってこと。……ね、わかった?」
 だまってうなずいた秀人に対し、魔法使いは満足げな笑みを浮かべた。それから、くるりとこちらに背を向ける。
「じゃあ、そういうことで。また明日、この場所で、ね?」
 そうして彼が再び杖を一振りすると、先ほどと同じように、こぶがカメレオンに変わった気がした。けれどそれをちゃんと確かめてしまう前に、いつのまにか魔法使いの姿はあとかたもなく消えていたのである。

* * *

「ただいま……」
 おかえり、の返事が返ってこないと知りながら、秀人は小さくそうつぶやいて玄関のドアを閉めた。びしょぬれのくつを脱いで、目立たないよう隅のほうへと立てかけておく。それからぬれて気持ち悪かったくつ下も脱いでしまうと、玄関マットの上に立ち、しばらく足が乾くのを待った。
 魔法使いと別れてからの帰り道、秀人はちょっとした茂みや電柱の陰なども注意深く確認しながら歩いてきた。どこにあのトランプが落ちているかわからない。少しでも多くの、強いカードを手に入れる必要があった。彼は、必死になってトランプの姿を求めた。
 秀人にとって、これはまたとないチャンスだった。どうにもならないと思っていたことが、解決できるかもしれないのだ。魔法使いとのゲームに勝ちさえすれば、あとは魔法の力でどうにでもなる。そんな二度とは訪れないであろうチャンスをつかみとって、秀人がかなえてもらいたい望み。それは、いじめっ子たちに勝つことだった。辰巳とその仲間に勝って、彼らを見返してやりたい。もう、二度といじめられたくはない。
 けれど、あれほど真剣に探してきたにもかかわらず、トランプなどどこにも落ちてはいなかった。秀人はそっとため息をついて、ズボンのポケットに手を入れた。もしかしたら、スペードの3を拾って魔法使いに会ったということ自体、夢だったのかもしれない。
 そんな考えが頭をかすめ不安になったが、ポケットの中にはちゃんとあのトランプが入っていた。スペードの3。大富豪をスタートさせるカード、そして最弱のカード……。
 秀人はトランプをポケットへと戻して、二階の部屋に上がった。
 部屋に入ってすぐ、傷だらけのランドセルを床に下ろした。閉めきったカーテンの隙間からは、オレンジ色の西日が差しこんでいる。部屋はすっかり暗くなっていたが、彼は電気をつける代わりにカーテンを大きく開けた。
 そこに、夕日を背負って思いがけずトラ猫の姿があった。
近所の飼い猫で、小さな鈴のついた赤い首輪をしている。たまにブロック塀の上を歩いているのを見かけることはあるが、こうして窓のすぐそばに丸まっていたのは初めてだ。しかも、飼い主の家ではなくて、野田家の屋根の上である。
どうしてこんなところに、この猫が……?
不思議に思いながら見てみると、どうやら猫は、丸まって眠っているようだった。
僕の家の屋根、散歩コースにでも入ってたのかな?
気持ちよさそうに眠っている猫を起こさないよう、秀人は窓を離れてランドセルから宿題のプリントを取り出した。なんとなく、部屋の電気はつけないまま机へと向かう。それから卓上にある電気スタンドのスイッチを入れて、漢字の問題に取りかかった。
静かな時間が流れた。聞こえるのは、えんぴつがたてるコツ、コツという音だけで、世界中のすべてのものが、ひっそりと息をひそめているようだった。
そうしてしばらくたって、ちょうどプリントの裏面にさしかかった頃。
りん、というかすかな音が聞こえた気がして、秀人は窓のほうを振り返った。
いつのまにか、外はオレンジ色の夕暮れから青い夜に変わっていた。スタンドの明かりが窓に反射して、猫の様子は見えなかった。
もう、帰っちゃったかな……。
秀人は、足音をたてないようにして窓の近くまで歩いていった。
 ――――――りん、
 再び、鈴の音が聞こえた。そっと窓を開けると、猫はまだ窓のすぐ近くに丸まっていた。赤い首輪をしたトラ猫が、じっと秀人の顔を見つめている。
「…………んっ?」
 猫を見つめ返した秀人は、思わず声を上げた。赤い首輪に、見覚えのあるものがはさまっていたのだ。えんじ色の唐草模様に、二匹のドラゴン……。
 トランプだ! 取らなくちゃ!
 とっさに手をのばした秀人だったが、突然のことに驚いた猫は、さっと立ち上がり後ずさってしまった。
「あっ……、ごめん」
 秀人は猫に向かってささやいた。その首輪にはさまっているトランプが、のどから手が出るほどほしい。けれど今乗り出して手をのばしたら、猫はきっと逃げていってしまうだろう。
「――――おいで、こっちにおいで」
 優しい声を出して、しばらくしんぼう強く誘ってみることにした。猫はただ、警戒しているようにじっとこちらを見ている。
「ね、おいでよ。おいで……こっちに、たのむから……」
 だめだろうかと思えてきた頃、ようやく猫が近くに寄ってきた。秀人はまずほっと息をつき、猫を安心させるようにそっとその背中をなでた。それが心地よかったらしく、猫はまた窓のすぐそばに丸くなった。
「にゃー」
 猫は、小さな鳴き声をあげて秀人を見た。それから驚いたことに、頭を左側へと傾けた。首輪の右にはさまっているトランプを、取ってくれとでもいうように。
「……どうも、ありがとう」
 秀人はささやいて、首輪からトランプを引き抜いた。それは、間違いなく魔法使いのトランプだった。
 どうか、強いカードでありますように……。
 祈る思いで、トランプを表に返してみる。
――――ダイヤの5。あまり、強いカードとは言えなかった。
 秀人は、白い面に並んだ五つの赤いダイヤを見つめながら、とりあえずこれで魔法使いの不戦勝にはならないだろう、ということを考えていた。

   * * *

 午後八時頃になって、秀人は一階の居間へとおりていった。暗い部屋に電気をつけて、テレビの電源も入れた。
 母さんたち、今日も遅いのかな……。
 夕食くらい一緒に食べたいと思ったが、おなかもすいてきたので先に食べることにした。
 居間とつながった台所に入り、冷蔵庫の前まで歩いていく。その扉には、両親の仕事関係のメモがところせましと貼りつけられていた。そのうちのひとつに目を通してみると、今日の日づけで「会議」とある。父の字だ。この関係で今日は帰りが遅いのだろうか。
 秀人は冷蔵庫にあったハンバーグとつけ合わせの野菜を電子レンジで温めて、サラダと一緒に居間まで運んだ。それから炊きたてのご飯もちゃわんに盛り、テレビの真ん前に陣取って座った。ちょうどやっていたバラエティー番組を見ながら、ひとり夕食を済ませる。テレビの中の人たちは、何がそんなにおもしろいのかと思うほどに何度も笑い声をあげていて、それにたえ切れなくなった秀人は結局テレビの電源を切った。
 ふたりとも、早く帰ってこないかな……。
 特にやるべきことも見当たらないまま、秀人はのろのろと流し台に食器をさげた。それからトランプのことに思い当たって、居間の中を探し始める。食器棚、テレビ台の引き出し、ソファーの下、テレビの裏、電話機の下、掛時計の裏、冷蔵庫と壁との隙間……。思いついたところはすべて探してみたが、見つかったのはトランプではなくて、十円玉一枚とレシート、クリップに小人の置物だけだった。
 あきらめて部屋に戻ろうかと居間のドアに手をかけたとき、玄関のほうでがちゃり、という音がした。迎えに出てみると、スーツ姿の母がパンプスを脱いでいるところだった。
「母さん、おかえり」
「ああ、秀人。ただいま。ちょっと遅くなっちゃって、ごめんね」
「……ううん」
「ご飯、食べた?」
「うん……」
 これくらいに帰ってくるなら、もう少し待てばよかったな。
 秀人は、寂しかったと言いたい気持ちをぐっとがまんした。母だって疲れているのだ。書類がつまったかばんを重そうにさげている。
「そのかばん、母さんの部屋に置いてくるよ」
 母の部屋は二階だ。疲れている身には、重たいかばんを持っていくのもひと苦労だろう。
「そう? じゃあ、お願いするわ。今日はずいぶんとサービスがいいのね?」
 母は笑ってかばんを秀人に渡した。かばんは、思った以上に重かった。それを両手で持ち上げながら、階段に向かって歩き始める。
「ねぇ、秀……」
 そこへ母が声をかけてきた。
「何?」
 振り返ってみると、母は少し真剣な顔をして秀人を見つめていた。
「……どうしたの?」
 そう聞き返した秀人の声は、わずかに不安でゆれていた。だが、母はふっと表情を緩めると首を軽く横に振った。
「ううん、なんでもない。ハンバーグ、おいしかった?」
「うん、おいしかったよ」
 秀人は答え、階段を上っていった。もしかしたら母は、秀人のスニーカーがぬれていることに気がついたのかもしれない。そして、秀人がくつ下をはいていないことにも。
 ……だとしても大丈夫だ。明日になれば、きっと魔法使いとのゲームに勝って、その魔法で望みをかなえてもらえるんだ。そうしたら、もう母さんに心配をかけることもない。
 彼は母の部屋のドアを開けて、電気のスイッチを探した。カチッという音の少しあとに、蛍光灯がしばらくまたたいて部屋を照らしだした。きちんと整えられたベッドに、化粧品がたくさん並んだ鏡台、それから奥のほうに仕事用の机が置かれている。
 秀人は机まで歩いていって、その上にかばんを置いた。そうしてから初めて、机の上に母のノートパソコンが置かれていないことに気がついた。パソコンは、かばんの中に入っていたのだ。どうりで重たいはずである。
 大変なんだなぁ……。こんなに重いのを、いつも持ち歩いてるなんて。
 そんなことを思いながら、かばんの表面をすべらせた秀人の手に、何か薄くてかたいものが当たった気がした。
 ……なんだろう?
 視線を落とした途端、彼の胸は高鳴った。それはトランプだった。母のかばんのポケットから、えんじ色のドラゴンが二匹、顔をのぞかせていた。
 いつのまに、こんなところに……?
 奇妙に思いながらも、秀人は深呼吸をしてカードの表を確認してみた。
 ――――ハートの、7。今までのカードの中では、一番強い。それは確かだった。けれど……。
 秀人は、不満な気持ちを振り払うようにして首を横に振った。
 とにかくたくさん見つけていけば、組み合わせによっては、いい手札になるかもしれない。まだ、たったの三枚だ。明日の夕暮れまでには、まだたくさん時間がある。
 そう思い直すと、彼は母の部屋を後にした。