カラス
果糖 量


 ある、夏の日の事だった。
 アスファルトが日光でホットプレートみたいになっていて、遠くの風景はそのせいで歪められている。
 何時間も突っ立っていたせいで、汗がだらだらと流れてくる。汗にぬれたシャツが気持ち悪い。
 カラスも、そんな地面にはいつくばるのが嫌なのか、そろいもそろって、電線の上で毛繕いをしている。
 妙に腹が立ったから、地面に落ちている石を拾い上げて、全力でカラスに向かって投げつけた。
    かぁ、かぁ、かぁ
 鳴き声を上げて、カラスはどこかへと飛び去っていく。
 僕の投げた石は、カラスを逸れて、近くの家の方に向かっていった。
    がしゃん!
 そして、ガラスが割れる音がした。
「やば!」
 口の中で小さくそう叫び、全力で走り出す。
 別に、ガラス代を弁償するのがそれほど苦というわけでは無い。
でも、もう幼くはない自分が石を投げてガラスを割ってしまったという事実は、かなり恥ずかしい。
また、そのことであの家に住んでいる人たちに頭を下げることも、恥ずかしかった。
 日常的に運動をしないせいか、少し走っただけだというのに汗が滝のように流れ、心臓はまるで早鐘を打つようだった。
 息はひどく乱れ、脇腹も痛く、運動不足を痛感した。
「はぁ、はぁ、はぁ」
 深呼吸をして呼吸を整え、辺りを見回してみる。一心不乱に走ったおかげか、結構遠いところまで来ていた。
 しかし、冷静になって考えてみると、住宅街の細い道路を全力で走っている男というのはひどく目立つのではないか……
「バカか、俺は」
 小さくため息をついた。
 あまりにも馬鹿らしくなったので、ひとまず、そのことについては、考えないことにして、歩き出す。
    かぁ
「ん?」
 鳴き声がしたので、後ろを振り返ってみた。
 そこに、白い鳥がいた。純白だった。
 クチバシが大きく、羽は濡れているように光っている。黒ではなくても、その姿と鳴き声はカラスなのだと思う。
「よぉ」
 何となく挨拶してみる。返事を期待している訳じゃないが、何となくじっとそいつを見つめた。
    かぁ
 まるで、こっちの言葉がわかっているかのように鳴いた。さすが、白い奴は違う。
「なぁ、さっきの見てた?」
    かぁ
 しまったな、やっぱり見られたか。ここは一つ、内緒にしてもらおう。
「そうか、じゃあ悪いけど秘密にしてくれないか?」
    かぁ
 カラスはまるで、そんなのゴメンだと言わんばかりに鳴いた。しかし、ここで引き下がるわけにもいかない。
「たのむよ、この通り。ほら、カロリーメイトやるから」
    かぁ
 ……そんなやりとりを何度か繰り返していると、なんだか、ひどく虚しくなってきた。
「あほらし」
 いくらカラスが、頭が良いといっても、人間の言葉は解らないだろう。
 どうせ、今までのも偶然噛み合っていただけだろう。
 バックからカロリーメイトを取り出し、一本をカラスの前に放り投げてみる。
 カラスは初め、一気に食べようとしたけど、アスファルトにクチバシが当たるだけだった。
業を煮やしたのか、一旦、カロリーメイトをくちばしで砕いてから、欠片を飲み込んだ。
一応、交渉成立だろうか。
「じゃあな、このことは他言無用にヨロシク!」
    かぁかぁ!
    ばさばさ!
 白いカラスに背を向けた。そいつが何か僕に対して言っているような気もしたが、とりあえず無視する。
 しかし、本当に暑い。まるでハワイかグアムみたいだ。夏とはいっても、北海道とかなら、さすがにここまでは暑かったりはしないだろうけど。北海道の人がうらやましい。そして、さっき割ったガラスからも逃げられるんだろうか。なら今すぐ引っ越したい所だ。でも引っ越しにどれくらいの費用がかかるんだろう。あまり、費用がかかるなら、一日中自室でクーラーをかけてこもってた方がマシだし――
 はぁ……どんどんと頭の中がぐちゃぐちゃになっていく。これも暑さのせいだ。何か飲み物はないか?
 ええと……自販機……自販機…………あった。
 とりあえず、自販機の前に立ってどんなものがあるのかをざっと見てみる。そこに、夏限定の清涼飲料水を見つけ、思わずにんまりとする。
 そして、硬貨を自販機に入れて新製品のボタンを押した。
 がこん、という音がして、自販機からアルミ缶が吐き出される。
 さて、これからどうしようか。さしあたって、やらなくちゃいけないことは、全くない。
 こんな暑い日に体を動かすのは、もっての他だし、バイトをするのも面倒だ。べつに買いたいものがあるわけでもないから、店で暇つぶしをする気にもなれない。
 さて、どうしようかと考えながら缶ジュースのプルトップをあげた。
 密封されていたせいで、圧縮されていた二酸化炭素が狭い出口から出ようと暴れ、ジュースが溢れそうになる。
「やば」
 あわてて口を缶に近づけ、あふれ出てくるジュースをすする。
    かぁ
 ん?
 何となく後ろを振り返ってみると、そこにはさっきのカラスがいた。純白の羽をばさばさと動かしている。
 さっき餌付けしたせいだろうか?
 なつかれるのに悪い気がしないけど、相手がカラスなのはちょっと。
「欲しいのか?」
    かぁ
「何言ってるのかわからん、ちゃんと日本語で言え」
 向こうはこっちの言葉がわかるかのように振舞っているけど、逆に、俺の方はカラスがどんなこと考えて鳴いているのか想像も出来ない。
    かぁ
 そんなことを考えていると、まるで、俺を非難するかのように鳴いた。
馬鹿にするな、とでも言っているみたいだ。
「たしかにそうだな。俺が悪かった、このとーり」
 よく解からなかったが、とりあえず、頭を下げた。
 けど、カラスに向かって本気で頭を下げるなんて自分くらいのものじゃないだろうか。
 でも、おざなりに謝るのもあれだしな。
「地面にはいつくばってるのも暑いだろう? 電線にあがった方がいいんじゃないか?」
    かぁ
ばさばさ
 カラスは羽をばたばたと広げたが、空に飛びはしなかった。よく見ると、体にはいくつもの傷が見て取れた。
「ケガしてるのか……とりあえず飲んどけ」
 近くのゴミ捨て場に落ちていた発泡スチロールの皿に、ジュースを注ぎ込んだ。
 喜んで純白の羽を動かして、カラスは発泡スチロールにくちばしを何度も突き立てる。
「そんなことしてると、そのうち穴が空いて飲めなくなるぞ」
 案の定、あっさりと発泡スチロールに穴が開きジュースがこぼれた。
「ほら、言わんこっちゃ無い。ほら」
 なんとなく、カラスが暑そうだったから、缶に残っているジュースをカラスにかけてやった。
かぁ
ばさばさ
 当たり前だが、カラスは羽を大きく動かしながら体をぶるぶると震わせて、水をはじき飛ばした。
 着色料たっぷりの清涼飲料水を。
「うわっ!
 ったく、こっちに水を飛ばすなよ」
かぁ
カラスはまるで、僕のことを非難するかのように、鳴き声をあげた。
「はいはい、僕が悪かったよ」
 あ〜あ、ズボンが濡れちまった。
 この暑さならすぐに乾くといっても、濡れたズボンを履いているのは、あまり良い気はしない。
 それに、着色料のたっぷりと入った清涼飲料水だ。シミになるのは間違いない。
 ため息をついてから、カラスの方を見た。カラスの純白の羽も、所々、清涼飲料水の色に染まっている。
 いや、まぁ、これは怒られて当然だろうな、やっぱり。
 なんだか、さっきからつきまとわれているせいか、妙に愛着がわいてきた。
「おい、白いの。ついてくるか?」
    かぁ
「あははは、ホントに俺の言葉が解ってるみたいだな」
 カラスの隣に腰を下ろす。カラスは逃げなかった。
 空を見上げてみれば、そこには憎らしいほどギラギラと日光を浴びせる小さな白い円が浮かび上がっていた。
 はぁ……暑い……
「おい、仲間と一緒にいなくていいのか?」
    かぁ
 ……その言葉が、肯定なのか否定なのか、よくわからなかった。カラスは、明らかに他とは異彩を放つ白い翼を広げている。
「……なぁ、一人だけ他人と全然違うってどういう気分なんだ?」
    かぁ
「……寂しくはないのか……孤独は癒されるのか?」
 一目見たときから、なんとなく想像がついていた。
 このカラスのケガは、嘴でつつかれて出来た物だ。
 美しいはずの白い羽は、所々血の朱に染まっていて、それが無性に痛ましかった。
 単なる俺の思い違いということも十分有り得る。しかし、俺の想像が当たっていたとしたら、それは、あまりに悲しい事だった。
 むしろ、人に傷つけられたほうが、まだイメージとしてはソフトだった。
 しかし、
もし、俺の想像が外れてなかったとしたら……
 このカラスの居場所は、何処にあるんだろうか。
「ははは、なんでカラスの身になんてなって考えてるんだろ」
    かぁかぁ!
 ばさばさ!
 カラスは、純白の翼をはためかせながら、空に向かって飛んでいった。
 時折、失速して高度を落としながら僕には見えない所へ飛んでいった。
 それは、カラスのたむろっている電線とは真逆の方向だった。
「そうか……」
 つまりは、あのカラスの居場所は同じカラスの所ではなかった
 けれど、僕の隣にもあのカラスの居場所はなかったんだろう。
「さて、僕も自分の場所に帰るとするか」
僕はここまで来た道を引き返した。
「さて、1年ぶりに戻ってきたと思ったら窓ガラスを割やがった放蕩息子に、あの親はどんな説教をするんだか」
 さすがに一年間も音沙汰なしだと、どうしても何かあの家には見えない壁があるように感じてしまう。
 でも、やっぱりあそこは僕の場所なんだろう。
 そう信じる以外に、僕に出来る事はない。
 
空は嫌味なほど青く、雲なんて全くない。
 太陽は遠慮なしに照りつけてくる。
 あのカラスは、今どこにいるんだろう。

 そんなことを頭に浮かべながら足を一歩踏み出した。